私立鏑木(かぶらぎ)学校と地域の偉大な教育者

1.史跡散策

はじめに

 明治新政府は、国力増強、近代化推進のため、富国強兵、殖産興業などの策を推し進めましたが、同時に教育制度の改革にも取り組みました。明治5年(1872)8月、明治政府は「邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん事を期す。」という高い理想を掲げて「学制」を発布しました。この「学制」というものは教育の機会均等を目標とし、児童就学を保護者の義務としました。そして、全国を8大学区に分け、それぞれの学区に大学、中学校及び小学校を置くことにしたものです。

 前回も触れましたが、この「学制」により千葉県では最も早く、同年9月、流山に教員養成学校である「印旛官員共立学舎」及びその付属小学校である「流山学校」が常与寺に設置され、ここに学制発布以降の千葉県近代教育の歴史が始まったとされています。

明治以前-江戸時代-の教育

 明治以前、例えば江戸時代の教育は、おおまかに言って、諸藩がその藩の子弟を教育するために設けた学校、いわゆる藩校というものがありました。
  一方、この時代の庶民の教育機関としては寺小屋や手習塾というものがあり、ここでは、読み、書き、算盤を中心にした教育を施し、武士、僧侶、医師、神官などが教育に当ったとされています。これらは、1村に1か所ぐらいあったとされていますが、1村の規模が小さいところでは、数村に1か所ぐらいあったとされています。但し、この時代には、寺小屋に通えるのは名主や裕福な家の子どもぐらいであったといわれています。一般の子どもたちが等しく教育を受けられるようになったのは、明治時代以降のことです。

私立鏑木(かぶらぎ)学校のこと

 流山市駒木台315番地(旧駒木新田)の十字路角に、高さ約3メートルの「鏑木佐内先生碑」と刻まれた立派な碑が建っています。ここが私立鏑木学校発祥の地です。この碑は、昭和5年(1930)に八木村、新川村(以上、現流山市)、柏町、田中村(以上、現柏市)などの有志が建てたものです。碑の裏面の碑文には

「鏑木先生巨費ヲ投シテ諸般ノ設備ヲ整ヘ私立鏑木小学校ト称シ無報酬無月謝ニテ多年教育ニ尽瘁セラルソノ薫陶ヲウケシ者数百人皆先生ノ厚恩ニ感ス茲ニ同窓会謀リ報恩感謝ノ意ヲ永久二表徴建碑シ以テ先生ノ徳ヲ頌シ霊ヲ慰ムルモノナリ」

と刻まれており、鏑木学校と教育に当った鏑木佐内を讃えています。

(上記を意訳すると、下記の通り)
 鏑木先生、巨費を投じて、様々な設備を整え、私立鏑木小学校を設立した。先生は無報酬、無月謝で、長年教育に一生懸命に力を尽されまた苦労するところも多かった。
 その薫陶を受けた者、数百人皆先生の深い恩恵に感じ、同窓会にも相談し、先生への報恩、感謝の意を永久にあらわし、ここに碑を建てて先生の徳をほめたたえ、霊を慰めるものである。

 鏑木学校の開設は明治10年(1877)3月、以降佐内は明治23年(1890)1月まで教員として教鞭をとったわけです。この碑は昭和2年(1927)の同人の死の3年後に薫陶を受けた有志によって建てられており、碑文からも私財を投げ打つて子どもたちの教育に当り、地域の発展に尽くした佐内の信頼が極めて高かったことが伺えます。

写真1 鏑木佐内先生碑

真2 鏑木学校発祥の地の案内板

 

鏑木学校設立の経緯

 前述の明治5年8月の学制発布以来、各地に学校が設立されましたが、流山の駒木新田や青田新田、駒木村の辺りには学校がありませんでした。そのため、子ども達は、当時牧の開拓に当っていた開墾者(この周辺は、江戸時代小金牧といって、幕府の軍馬養成ための牧場であり、野生に近い形で馬が放牧されていた。明治に入り、職を失い、窮乏した大勢の武士達がいたが、明治新政府はこれら武士たちにこの場所の開拓に当らせた。)の子弟が通う学校、当時十余二村(現柏市)にあった私立三井学校に通うことになった。しかし、三井学校もこの地区の子ども達が通うにはやや不便な地区にありました。

 明治6年10月、高田新田、駒木新田、十太夫新田、初石新田、大畔村、大畔新田、三輪野山村、駒木村(以上、現流山市)及び篠籠田村、高田村(以上、現柏市)の10カ村が駒木村の成顕寺に公立学校を設置したいと千葉県に願い出ましたが、認められませんでした。
 そこで、明治10年(1877)2月、駒木新田の鏑木平馬、岡田八郎兵衛らは私費を投じて、私立学校を設置することを千葉県へ申請しました。駒木新田、青田新田の住民たちも私立学校設置に賛同して嘆願しています。こうして、同年3月駒木新田の鏑木屋敷内に、私立鏑木学校が設置されました。 

鏑木学校の教育、そしてその後

 教員は、平馬の息子である佐内が自ら教鞭をとりました。前述の通り、明治23年(1890)1月に退職となりますが、その任にあっては、先の碑文に記されたように、児童の教育に全力をささげた結果、児童・生徒や保護者から絶大な信頼を得たのです。
 また、「千葉県教育史、巻二」によれば、「冬季中に於いて、自家に山積する貯蔵の薪炭を生徒の採暖用として提供し厳寒を凌がせりというが如き、其の篤行感ずるに餘りあり。」とその人柄を讃えています。
 一方、私立学校とはいっても、授業の内容や校則などは公立学校と同じであり、鏑木学校が公立学校の代わりであったことが分かります。それは、明治13年(1880)4月に制定された「私立鏑木小学校定制」ではっきり分かります。またこの定制には、鏑木父子の教育熱心な面がよく表れています。定制の第1条で

「学齢ノ子女貧富貴賎ヲ論セズ、普通ノ学科ヲ教授スル所ナリ」

とうたい、どの子どもも平等に扱われました。もちろん女子も平等に扱われました。そして、授業料は一切無料であり、場合によっては教科書も無料としました。当時、官立の小学校の多くが授業料は有料であったことを考えると、画期的なことであり、村の人々に大いに感謝されたことが分かります。

 明治10年4月の入学者は、男19名、女1名、9月に男15名、女3名、12月に男1名でこの年度の生徒数は39名でした。明治14年(1881)に学区が改訂されるまでは、十余二、高田(以上、現柏市)や今上、上三ヶ尾(現野田市)といった村々の子ども達も鏑木学校に通いました。明治15年(1882)になると、生徒数は65名となり、他の公立学校に比べても、高い就学率を達成しています。
 その後、鏑木学校は明治19年(1886)に公立学校となりました。さらに、その後も多くの変遷を経て、所在地も鏑木学校発祥の地から直線距離で南に約900mの地に移り、現在は流山市立八木北小学校として存続しています。

 さて、当校は、鏑木学校創設から数えると、今年で144年を迎えることとなりましたが、その長い歴史の中において、今や鏑木学校との縁も薄くなり、また当時と社会情勢や教育環境も全く異なっており、校内でも鏑木学校が話題にのぼることはほとんどないと思います。しかし、我々は或いは今でもこの地に立ってみれば、明治の初めに無償の精神で教育に取り組み、人々に慕われた地域の偉大な教育者の姿を見ることが出来るかもしれません。(続く

写真3 現在の八木北小学校

写真4 現在の八木北小学校の校庭と校舎

コメント

  1. […]  先に、表題の件、即ち、私立鏑木学校とその創設者であり、また教育者でもある鏑木佐内のことについて紹介させていただきました。今回は、重複する部分もありますが、その続きを少し述べさせていただきます。 […]

  2. […] 私立鏑木(かぶらぎ)学校と地域の偉大な教育者 […]

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