私立鏑木(かぶらぎ)学校と地域の偉大な教育者(続き)

1.史跡散策

2021.12.7

はじめに

 先に、表題の件、即ち、私立鏑木学校とその創設者であり、また教育者でもある鏑木佐内のことについて紹介させていただきました。今回は、重複する部分もありますが、その続きを少し述べさせていただきます。

鏑木佐内のこと、前回の概要

 鏑木佐内は、その父親の平馬とともに、明治10年(1877)3月、駒木新田(現、流山市)の鏑木屋敷内に私立鏑木学校を設立し、同23年(1890)1月まで児童の教育に当りました。

 佐内は、この私立学校において昭和5年(1930)に建てられた石碑「鏑木佐内先生碑」にも刻まれている通り、無報酬、無月謝で教育に一生懸命に取り組み、またその苦労も多かったとされています。 生徒は地元の現流山市のみならず、近隣の同野田市、同柏市などからも集まったとされています。

 当時、公立小学校の多くが、現在と違って授業料は有料であり、私立である鏑木小学校の授業料が無料であったということは地域の人々に大いに歓迎され、感謝されたことが分かると思います。

 つまり、この小学校は貧富の区別なく、また男女の区別なく生徒を受け入れたということであり、明治の初めでありながら、現代でも稀な先進的で、文字通り地域に密着した学校であったといえます。

写真1 鏑木佐内像(流山市博物館蔵)

写真2 鏑木佐内先生碑(鏑木学校発祥の地)

「流山市立八木北小学校百年誌」に見る鏑木学校と佐内

 鏑木小学校は、明治19年(1886)に公立小学校になり、その後多くの変遷を経て現在、流山市立八木北小学校として存続しています。この八木北小学校は、鏑木学校創立から数えると、来年145年を迎えることとなります。

 また、この八木北小学校が1977年、創立100周年を迎えた時、当小学校で「百年誌」が編纂されています。(昭和53年⦅1978⦆3月20日発行)

 その巻頭言で、当時の校長、早川敏弘氏は「温故知新」と題する一文を寄せられています。その中で、当校の創設は鏑木学校を原点としているとして、鏑木学校や創設者の平馬並びに佐内に触れておられます。その一部分を抜粋して以下に紹介します。

 「・・・・その後庶民教育に熱情を持っていた(鏑木)平馬氏は長女の夫である佐内氏と親子で官立学校の夢が実現しなかったので、私財を投じて屋敷内に『鏑木小学校』と称する私立の小学校を設立し、時に明治10年3月でした。そして、両氏はみずから教師として教鞭をとりました。佐内氏の場合はその後13年余にわたって教鞭をとり続けたそうです。私立小学校とは言え、時の『小学校規則並びに教則』に準拠して『定制』なるものが作られ、全く官立小学校に劣らぬものがあったようです。授業料は一切無料であり、場合によっては、教科書も無料だったそうです。その目的はどの子も同じように教育が受けられるためだったのです。もちろん女子も同じように扱われたのです。このようにして当地域における教育はスタートしたのですが、その後町村制の施行後明治19年に漸く公立小学校として認定され、明治33年現在地に移転され、八木第二尋常小学校と改称され、その後幾星霜、多くの変遷を経て、現在に至りました。(後略)」

 このように当時の校長、早川敏弘氏は、八木北小学校100周年を迎え、その「百年誌」で、本校の基となった私立鏑木小学校の設立経緯やその特色等について要領よく触れられています。

 さらに、本誌では「八木北小学校百年の歩み」として、鏑木家及び佐内氏の人物像も記されていますので、併せて紹介させていただき、以て本稿を終わりたいと思います。

「鏑木家の先祖は、鏑木九郎入道胤定で、鎌倉時代末期に鏑木太郎右衛門が香取郡へ移り、鏑木村を輿し千葉一族と共に勢力を拡げる。

 寛永10年(1633年)鏑木市兵衛が分家して駒木新田村に住んだのが始まりといわれる。生業は代々小金牧牧士または牧士頭であった。(以下、略)」

鏑木佐内像(大正6年編纂 八木村誌より)注:八木北小学校「百年誌」記載のもの

 君は、八木村駒木新田区の人なり 明治十年父平馬氏私財を投じて、私立鏑木小学校を創設するに当り教員として児童教育の任に当り鋭意その職に尽くせしを以て父兄児童の信頼甚だ厚かりき二十三年一月六日退職す、

  同二十八年四月二十五日八木村助役に就任し、同三十二年四月二十四日満期退任す、三十年五月十四日学務委員に挙げられ、大正六年まで就任せり、

  明治三十四年二月村会議員に挙げられ再来引続きその職にあり常に諤の言議を以てその任を尽くし、村政上貢献する所鮮からず本村北部に於ける重鎮として、今猶其の職に在り実に本村中、欠く可からずの人物なり。」   (注、原文はカタカナ表記)

このように見てみると、まさに明治の初めに無償の精神で児童生徒の教育に取り組み、地域の発展に大いに貢献し、人々に慕われた偉大な教育者の人格、人柄が改めて偲ばれるところです。

写真3 鏑木学校教科書保管箱の蓋
(流山市博物館蔵)

写真4 現在の八木北小学校(前回掲載の写真と同じ)

参考

 流山市駒木台方面、「鏑木学校発祥の地(鏑木佐内先生碑)」へは、「流山おおたかの森駅西口」からグリーンバスで美田、駒木台ルート、「駒木台福祉会館」下車、徒歩7~8分。

コメント

  1. […]  教員は、平馬の息子である佐内が自ら教鞭をとりました。前述の通り、明治23年(1890)1月に退職となりますが、その任にあっては、先の碑文に記されたように、児童の教育に全力をささげた結果、児童・生徒や保護者から絶大な信頼を得たのです。 また、「千葉県教育史、巻二」によれば、「冬季中に於いて、自家に山積する貯蔵の薪炭を生徒の採暖用として提供し厳寒を凌がせりというが如き、其の篤行感ずるに餘りあり。」とその人柄を讃えています。 一方、私立学校とはいっても、授業の内容や校則などは公立学校と同じであり、鏑木学校が公立学校の代わりであったことが分かります。それは、明治13年(1880)4月に制定された「私立鏑木小学校定制」ではっきり分かります。またこの定制には、鏑木父子の教育熱心な面がよく表れています。定制の第1条で「学齢ノ子女貧富貴賎ヲ論セズ、普通ノ学科ヲ教授スル所ナリ」とうたい、どの子どもも平等に扱われました。もちろん女子も平等に扱われました。そして、授業料は一切無料であり、場合によっては教科書も無料としました。当時、官立の小学校の多くが授業料は有料であったことを考えると、画期的なことであり、村の人々に大いに感謝されたことが分かります。 明治10年4月の入学者は、男19名、女1名、9月に男15名、女3名、12月に男1名でこの年度の生徒数は39名でした。明治14年(1881)に学区が改訂されるまでは、十余二、高田(以上、現柏市)や今上、上三ヶ尾(現野田市)といった村々の子ども達も鏑木学校に通いました。明治15年(1882)になると、生徒数は65名となり、他の公立学校に比べても、高い就学率を達成しています。 その後、鏑木学校は明治19年(1886)に公立学校となりました。さらに、その後も多くの変遷を経て、所在地も鏑木学校発祥の地から直線距離で南に約900mの地に移り、現在は流山市立八木北小学校として存続しています。 さて、当校は、鏑木学校創設から数えると、今年で144年を迎えることとなりましたが、その長い歴史の中において、今や鏑木学校との縁も薄くなり、また当時と社会情勢や教育環境も全く異なっており、校内でも鏑木学校が話題にのぼることはほとんどないと思います。しかし、我々は或いは今でもこの地に立ってみれば、明治の初めに無償の精神で教育に取り組み、人々に慕われた地域の偉大な教育者の姿を見ることが出来るかもしれません。(続く) […]

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