流山の意外な歴史的事実2点

1.史跡散策

 流山概要

 

「つくばエクスプレス」開業時

 この欄を担当する筆者は、およそ15年前に当地に引っ越して参りました。それは丁度「つくばエクスプレス」が開業した(2005年8月24日)翌年の2006年4月末のことです。
 流山に引っ越した理由は「つくばエクスプレス」が流山を通り、ここが都心に直結する地域になるというニュースを聞いたからです。
 その時、筆者は既に現役を離れ、引退しておりましたが、この町は今後大いに発展すると考え、25年近く住んだ町から居を移すことにしたのです。
 だから、流山市にはそれほど長い間、住んでいるわけではありませんので、詳しく知っているわけではありません。しかし、この間少しこの町を巡ってきたこともあり、知っている範囲で極く簡単に、この町を紹介させていただきます。

県内では7年連続1位

 最初に、この町は関東平野のほぼ中央部、千葉県北西部に位置しており、江戸川に沿って、ほぼ長方形で、面積は35.32平方キロメートルあり、都心から25キロメートル圏に位置しています。
 また、最近の朝日新聞の記述によれば、およそ以下のような内容が記載されておりました。
 「今、この町は人口20万人を突破し、人口規模では八千代市に次いで、県内8番目となっています。今年(2021)1月6日現在で20万7人となり、1967年(昭和42年1月1日)の市制施行以来、初めて20万人を超えました。
 つくばエクスプレス開業がきっかけとなり、市内に3駅を持つ流山市は年々人口が増加しており、ここ数年は5,000人規模で急増しており、増加率は全国792市の中で4年連続1位で、県内では7年連続して1位となっている。」
以上のとおり、筆者が当時予想していた通りの発展を遂げています。

写真1.発展する流山おおたかの森駅周辺 その1

写真2.発展する流山おおたかの森駅周辺 その2

流山の発展

 流山に町(村)が形成され始めたのは江戸時代の初め、江戸川、利根川の改修が行われ、この地域で舟運が急速に発展した時期で流山には江戸川沿いに2か所の河岸(本多河岸及び流山河岸)が誕生し、これを中心に町が形成されてきました。
 従って、流山は最近発展を遂げているつくばエクスプレス沿いのいわば新開地とは別にもともとは江戸川沿いに形成された旧市街地ともいえるところが現在も江戸から明治、大正と昔の町の名残をとどめており、見どころも多くあるのです。

写真3.流山本町(旧市街)の街並み その1

写真4.流山本町(旧市街)の街並み その2

 さらに、流山は江戸中期になると醸造業が発展し、その後いわゆる白みりんが開発され、流山は豊かな町となり、明治以降も発展を続けていきました。
 ここで今回は流山のあまり知られていない意外な歴史的事実を二つばかり紹介したいと思います。

 千葉県最初の県庁所在地

 第一は、ここ流山が千葉県では最初に県庁が置かれたことです。即ち、明治2年(1869)1月13日から同6年(1873)6月14日にかけてこの地が県庁所在地となりました。
 明治2年1月13日に置かれたのは「葛飾県」でした。そして加村というところにあった田中藩本多家の加村台御屋敷跡に県庁が置かれました。その後明治政府による廃藩置県や改置府県などを経て、明治4年(1871)11月13日に葛飾県を母体にして「印旛県」が誕生し、引き続きこの地に県庁が置かれました。
 その後、明治6年6月15日、「印旛県」と安房上総にあった「木更津県」が合併し、「千葉県」が誕生しました。
 その結果、県庁も千葉県の中心となる千葉町(現千葉市)に移り、印旛県の県庁の業務もそのまま千葉県に移りました。
 なお、現在6月15日は千葉県民の日となっていますが、同月同日に千葉県が誕生した日を記念して設定されたものです。
 以上の通り、流山は明治初期、およそ4年半にわたって、県庁の所在地であったわけです。
 現在、あまり目立たないのですが、市立博物館、同中央図書館の敷地内に「葛飾県、印旛県県庁跡の碑」があります。

写真5.葛飾県、印旛県史跡の碑

写真6.葛飾県、印旛県県庁跡の碑の説明板

 千葉県近代教育発祥の地

 第二は、この地が千葉県近代教育発祥の地であったということです。
 流山の旧市街、本町根郷地区の旧本通り沿いに日蓮宗の寺院である常与寺というお寺があります。創建は鎌倉時代末期の嘉歴元年(1326)といわれております。
 ここに高さ2.7メートルの碑が立っています。

 千葉師範学校発祥の地

 碑の正面には、上部に「千葉師範学校発祥の地」とあり、その下には「印旛官員共立学舎跡」として明治5年(1872)8月の「学制」の発布に伴い、9月に、印旛県令の河瀬秀治が印旛官員共立学舎を開設したと刻まれています。
 この「学制」というものは「邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめんことを期す」として、教育の機会均等を目指して、児童就学を保護者の義務とするもので、全国に教員養成所と小学校をつくるというものでした。

 印旛官員共立学舎

 これを受けて、当時の印旛県令(知事)の河瀬秀治は教員養成を目的として「印旛官員共立学舎」を9月23日に創立しました。
 この学舎は、県庁の官員が給料の一部を出し合って創設したもので、そのため官員共立学舎といわれております。10月に第一回の募集をしています。募集内容は、これまで児童の教育を行ってきた者や有志の者で年齢20歳以上、篤実人望のあるものを1小区に3人ずつ戸長が人選するよう求めています。
 この時、推薦されたものは伝習生と呼ばれ、県庁の官員が仮の教授として、60日間講習を行い、翌明治6年(1873)1月27日就業試験を終え、28日県庁で証書が交付されました。
 その後も募集を行っています。
 共立学舎で学んだ伝習生たちはそれぞれ地元に戻り、新しく発足した小学校の教師として児童の教育に当たりました。

「印旛官員共立学舎」はその後も引続き教員の養成に当たっていましたが、前述の明治6年6月15日印旛県と木更津県が合併し、千葉県が誕生した際、その中心にあった千葉町に県庁が移転し、同年7月印旛官員共立学舎も千葉町に移転し、翌7年5月に「千葉師範学校」に改称されました。
 千葉師範学校は現在の「千葉大学教育学部」の前身となったのです。

 また、印旛官員共立学舎には、同時に教育実習のため、附属小学校(流山学校)が併設され、それが現在の流山小学校の前身です。いずれも、常与寺に設置されました。
 このように共立学舎及び附属小学校は学制発布後千葉県内で最も早くできた学校であり、流山は県近代教育の発祥の地と言っても過言ではありません。

写真7.千葉師範学校発祥の地の碑

写真8.千葉師範学校発祥の地の碑のある常与寺の境内

 以上、見てきた通り、流山は江戸時代から明治にかけて発展し、その結果県内で最初の県庁が置かれたこと、並びに学制発布後の県内近代教育発祥の地であるというあまり知られていない2点について紹介させて頂きました。

コメント

  1. […]  明治新政府は、国力増強、近代化推進のため、富国強兵、殖産興業などの策を推し進めましたが、同時に教育制度の改革にも取り組みました。明治5年(1872)8月、明治政府は「邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん事を期す。」という高い理想を掲げて「学制」を発布しました。この「学制」というものは教育の機会均等を目標とし、児童就学を保護者の義務としました。そして、全国を8大学区に分け、それぞれの学区に大学、中学校及び小学校を置くことにしたものです。 前回も触れましたが、この「学制」により千葉県では最も早く、同年9月、流山に教員養成学校である「印旛官員共立学舎」及びその付属小学校である「流山学校」が常与寺に設置され、ここに学制発布以降の千葉県近代教育の歴史が始まったとされています。 […]

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