「明治初年の下総農民による国替え停止運動について」

1.史跡散策

はじめに

 我が国の世の流れが徳川の時代から、天皇支配という新しい時代に移った年、即ち、明治初年(1868年)に、田中藩本多家の飛地領であった下総領内42か村の村々が彼らの領主、本多家の国替え(新政府の方針)に反対し、その停止運動を起こしました。

 明治初年とはいえ、幕末と言ってもいいこの時代に農民たちが、新政府の方針に反対し、彼らの土地の支配を元の領主のままにしてもらいたいという特異で、少し珍しい運動を起こしたのです。

 今から、154年前の明治初年に起こったこの運動の経緯を振り返り、その意味と若干の私見(感想)を述べてみたいと思います。

 この運動を述べるためには、先ず、最初に江戸時時代の農民について、簡単に触れておかなくてはなりません。

 その上で、この国替え停止運動の経緯について、さらにその背景(要因)、並びに運動の評価について、最後に本運動についての私見(感想)を述べさせていただきます。

以下の記述は主に次の資料を参考にしています。

 ・「流山のむかし」 流山市立博物館編
 ・「ふるさと流山の歩み」 同上
 ・「流山市史通史編1及びⅡ」
 ・「柏市史近世編及び近代編」
 ・「東葛飾の歴史地理」 千葉県東葛地方研究所発行
 ・「わが町高田 ふるさと散策」 柏市立高田小学校PTA「ふるさとの歴史を探そう学習会」編
 ・「千葉県東葛飾郡誌」 崙書房発行

 なお、本稿は従来と同様、新しい研究をしたとか、新しい発見をしたとかではなく、今まで知られていたことをまとめたものであることを付記いたします。

 また、本論に入る前に、本稿と関連しますので、江戸時代の農村の支配形態について、併せて下総国(現、千葉県北部、茨城県南部、埼玉県東部、東京都東部)のそれについても参考までに、事前に概略を述べておきます。 

(参考)江戸時代の農村の支配形態について

 この時代、幕府は全国の収納高を把握するため、村の数及びその村高(生産高)の調査を行っています。そしてその村々の全てに支配者が割り振られました。江戸を中心とした関八州(武蔵、相模、上総、下総、安房など、ほぼ現在の関東地方)と呼ばれる地域には、代官が派遣される幕府の直轄地(幕領)、と旗本の知行地、親藩、譜代大名の領地が複雑に入り組んでいました。

 下総国も同様であり、大名領についていえば、城持ちの大名領もありましたが、4万石の田中藩本多家がこの地に1万石の飛地領を有していました。

 また、一村の支配も二人以上の支配者(いわゆる相給(あいきゅう))の地が多く、そのため、この地の農民の連携をより困難なものにしたといわれています。

1.江戸時代の農民

 江戸時代には、全人口の約8割(9割という説もある)が、農民であった。(即ち、ほとんどが農民であったと言える。)

 農民は年貢を納めることで、幕藩領主の財政を支えることとなっていたが、そのため、様々な統制を受けていた。

 また、幕府や藩は財政を満たすため、度々検地を行っている。検地することにより、石高を決め、その石高に税率を掛けたものが年貢となったからである。

 農民統制のため、まず寛永20年(1643)に、幕府は田畑永代売買禁止令を出した。従って、これより以降は田や畑を売ることも買うこともできないことになった。

 慶安2年(1649)3月、三代将軍家光は、農民に対し32か条からなる慶安の御触書を出し、農民の暮らしについて細かく規定している。例えば、

 「農民は朝早く起きて、草を刈り、昼は田畑を耕し、夜には縄をない、俵をあみ、どんな仕事も一生懸命しなくてはならぬ。・・・着るものは木綿か麻、色は黒か紺しか着てはならぬ。等々」

 さらに、延宝元年(1673)には、分地制限令が出され、名主20石、百姓10石以下のものは、土地を分割することを禁ずるというもので、小さな村では分家できる家は少なかったものと思われる。

 支配者たる幕藩領主が農民をどのように見ていたかは、先の慶安の御触書によっても分かるが、家康の右腕といわれ、最高の腹心であった本多正信(因みに、正信は本多俊正の次男で、田中藩本多家の始祖である正重の兄)は一年に必要な種籾や食料のほかは、全て年貢として徴収すること。農民に財が余らいように、不足しないように治めることが道であると説いている。

 また家康は「百姓どもは死なぬ様に、生きぬ様にと合点致し」と述べている。

 さらに、江戸時代中期の勘定奉行神尾(かんお)(はる)(ひで)は「胡麻の油と百姓は、絞れば絞るほどでるものなり。」と放言したといわれる。

 これらはまさに江戸時代の基本的な農民観であったといえる。

 一方、幕藩体制は元禄期に入ると、経済的にも安定期を迎えるが、その後は、年貢収入は頭打ちとなり、諸要因(米価の下落、諸物価の高騰など)により、幕府をはじめとする武家社会の財政窮乏が顕著になってきた。

 さらに、それらに加えて、18世紀には凶作が続き、享保、天明、天保の大飢饉などが起こり、農村も窮乏が著しくなった。その農村でも裕福な上層民と窮乏する下層民とに分かれていくこととなった。

 江戸中期以降は、百姓一揆が頻発するようになり、後期には都市下層民による打ちこわしなども頻発した。

 このような流れの中で、幕末の世相を色濃く残す明治初年に、本多家の下総領の42か村の農民が新政府の政策に反対し、彼らの土地の支配を本多家のままにしてほしいとして運動を起こしたのは、領主と農民の一般的な関係を考えるとやや特異であまり無いことのように思える。

 その要因は色々考えられるが、領主と農民の関係が良好なものであったということであり、そのような地域は封建制度の下ではあるが、比較的健全な地域社会を形成していたということが想像できる。

2.運動の経緯

 いわゆる明治維新により、幕藩体制は崩壊し、新たに地方組織においても、「府(重要な地域)」、「藩(大名領)」、「県(旧幕府領や旗本の知行地)」が成立し、のちに府県となった。下総国においても旧幕府領や旗本の知行地は取り上げられ、知県事の支配となった。

 ところが、駿河国(現静岡県東部)に本拠を置いた本多家の飛地領(大名領)も同様に取り上げられ、知県事の支配となった。

 それは、田中藩が安房(千葉県南部)に移封されたためである。この移封となった原因は、徳川宗家の処分にある。新政府は徳川家を家康とゆかりの深い東海地方(最終的には駿河国、遠江国、三河国)の一部に移して、府中藩(後に静岡藩)とすることになった。

 その結果、駿河国、遠江国に本拠を置く七つの藩は上総、安房に移封されることとなった。前述の通り、田中藩も例外ではなく、安房国に移ることになった。

(下記図1.参照)

図1.駿遠七藩の移封(流山市博物館編「ふるさと流山のあゆみ」より)

 そして、駿河国の領地と共に、先に述べた通り、下総の飛地領も取り上げられ、当該領地は下総知県事の支配となった。

 ここに至って、田中藩本多家の飛地領であった下総42か村の農民は、国替え停止運動を起こしたわけである。

 この運動を、改めて、その前後の主な動きと併せてみていると、次のような経緯を辿っている。

年 号西暦内容
慶応3年10月1867大政奉還
12月1867王政復古の大号令
慶応4年1月1868鳥羽伏見の戦い
5月1868徳川家 駿河国、遠江国を本国とする静岡藩70万石に列せられる。  このため、駿河国や遠江国諸藩(7藩、本多家も含む)は上総国や安房国に国替えを命じられる。)
8月1868徳川宗家の継承者、徳川(いえ)(さと)、静岡藩主として駿府に入る。  
9月1868田中藩本多家当主、正納(まさもり)、安房国長尾に入る。
10月 (明治元年)   1868田中藩の下総一帯にあった飛地領も取り上げられ(上地)、下総知県事の支配となる。(後に葛飾県に組み込まれる。)
明治元年10月1868田中藩本多家の飛地領であった下総42か村の農民による国替え停止運動が起きる。  当該42か村の惣代(鰭ヶ崎村の庄左衛門たち)が連名で民政裁判所(旧勘定奉行所)に国替え停止を願い出た。(田中藩のままにしてもらえるよう嘆願)
明治元年10月1868村の代表は、別ルートからの工作も開始。 即ち、岡本(村)頼母を通して、弁事役所に勤める岡谷忠吾と接触。岡谷は「依頼を叶えるには金がかかる」として、500両程を用意するよう要求。村の代表は金銭を何回かに分けて渡し続け、合計で505両を両人に預けることになった。(結果は、うまくいかなかった。)(※1)
明治2年2月1869旧領主本多家に対して民政裁判所に願い出たことを報告。協力を願い出る。
明治3年6月1870この運動の中心人物、庄左衛門を含む5名は、押込(家からの出入りを禁止される刑)を命じられる。(※2) 翌月、許される。

(※1)国替え停止運動に掛かった費用 760両2分2朱。(因みに、千葉県東葛飾郡誌によれば、約3000両)
(※2)罪状は、「正規の手続き取らず、岡本(村)頼母に紹介された岡谷忠吾に内願したこと。その費用で内願が実現すると思い込み、具体的な説明がなかったため、岡谷が個人的な借金だと思うようになった不手際。岡谷から返済したとする金子などの処置に困り、そのまましまい込んでしまったことなど」が挙げられている。
さらに、その処罰として岡谷忠吾から返済された元利(約500両と田地証文)が没収された。

 以上の通り田中藩本多家の国替に伴う下総領内農民の反対運動は、これに携わった主な者が刑罰を受け、さらに多額の費用を無駄にして、終わった形となった。

3.運動の背景(要因)

 この運動が、起こった背景(要因)としては、次のようなことが挙げられる。

1) 下総飛地領の村々は本多家の国替えは、時節柄致し方ないこととして受け止めていたが、飛地領までが国替えの対象となる(上知)とは考えていなかったこと。

2) 本多家の支配は穏やかなもので(※)、農民との関係は比較的良好であり、約250年間も続いた支配が続くものと考えていただけに領主の交代が村々にもたらす利害(年貢や課役)に不安を覚えたこと。(※)年貢については、「五公五民」以上の重い税は取らなかったこと。また、刑罰も主に徴税違反や盗み、殺人を犯した者にかけるだけであったという。

3)新政府のやり方に対する反発。

4.運動の評価

 この運動について、注目されることが少ないと見えて、評価を論じているものはあまり無い。以下に「千葉県東葛飾郡誌」に述べられていることを参考までに掲載しておく。(漢字は新字体にて)

「・・・嗚呼 時勢の暗きは過渡時代にありては止むを得ず又憐れむべしと雖も旧主を思う一片の情宜は実に美なりしに非ずや」

「時勢に遅れた考え方で行動しているが、この時代にあってはやむを得ないことであり、また憐れでもある、しかし旧領主を思う気持ちは正に美談ではないか。」と。

 つまり、美談であるが、行動のもとになった当該農民の考え方(時勢を見る目)に疑問を呈しているように思える。

終わりに

 前にも述べたように、幕末に近づく従って、幕府や領主(武士階層)の財政は窮乏し、その力は相対的に弱くなった。他方では、農村(なかでも富裕農民)などの力が強くなり、彼らが農村(地域社会)の財政を支えることとなった。

 また、千葉県文書館嘱託(当時)の武田真幸氏は、「江戸時代には、村の役割が大きくなり、政治までを担うようになってきた。地域の存在感が大きくなり、明治維新に際しては、地域の人が出てくるようになった。」という趣旨の発言をされている。(2019.7.4.流山市公民館講演会「飢饉から江戸時代を考える」より)

 このような中で、この運動を時勢に暗きものとして、また単なる美談として取り扱うことには疑問がある。

 先にこの運動の背景(要因)として、「新政府のやり方に対する反発」という一項を掲げたが、江戸時代を通じて、年貢の担い手として様々な統制を受けた農民(富裕農民と下層農民に分かれる)が、徐々に力を蓄え、武士階層を飛び越えて、国政(国替えという政治的な課題)にまで影響を及ぼすことになったということである。

 そのように考えると、この運動は失敗したとはいえ、これは被支配者たる農民が物心両面にわたって成長と発展を果たしてきたということであり、地域が主役になってきたということでもある。そこに歴史のダイナミズムを見ることが出来る。

 それ故、この運動については、様々なことを考えさせられ、また学ぶことが出来るはずである。

 まさに歴史から学ぶ所以である。

以上

(参考)田中藩の下総領について

 下総領には葛飾郡船戸村(現、柏市)と同郡藤心村(現、同)に陣屋(代官所)が置かれ、代官が常駐して支配に当った。

 田中藩では、船戸陣屋が統括した地域を中相馬領、藤心陣屋が統括した地域を南相馬領と呼んで区分していた。中相馬領、南相馬領とも、それぞれ21か村で構成されていた。現行の自治体でいえば、流山市、野田市、柏市、我孫子市、埼玉県春日部市(旧、同庄和町)、松戸市、市川市、鎌ヶ谷市にまたがっている。(次ページ資料参照、各領地の村の支配高を一覧表にまとめました。但し、詳しい説明は下記補足説明(最終項目)をご参照願います。)

図2.田中藩本多家始祖、「本多正重」肖像画


写真 1.田中藩本多家「船戸陣屋」があったとされる場所(現「柏市田中地域の船戸」 つくばエクスプレス、柏たなか駅下車、徒歩約15分)

以上、いずれも「柏市史近世編 石塚朝五郎家文書」による。但し、元禄14年宛行分は「流山市史通史編1 旧高旧領取調帳」などによる。

「明治初年の下総農民による国替え停止運動について」 上記資料「田中藩中(南)相馬領の領地について」補足説明

  1. 本表について、参考までに以下の通り説明を加えます。本表全体は、下の注意書きに記載の通り「柏市史近世編」に記載のものです。但し、それぞれの表の右端の「元禄14年宛行分(石)」は参考までに「流山市史通史編1」から抜き書きしたものです。
  2. この表に抜けているもの、即ち記載漏れの村があります。それが葛飾郡「中曽根下谷新田」、635.763石です。従って、左の表1.中相馬領の領地(支配高、8835石余り)となっていますが、当該表の合計に上記村の石高を加える必要があります。(この表の合計だけでは、「8835石余り」とはなりません。)
  3. 本表によれば、田中藩本多家の下総領の支配高は、中相馬領と南相馬領の領地の合計、15785石余りとなり、当家の下総領の石高とされている1万石を大きく超えています。
    その理由は、次の通りです。
  4. 左表「1.田中藩中相馬領の領地」のそれぞれの村の支配高(石)の内訳は、この表には記載されていませんが、それは1)本高(本田畑の高、即ち村高)2)改出高(堀、川、沼など年貢免除となっていた土地に造られた新田畑を調べ、年貢として徴収された高)3)新高(新しく開墾した田畑の石高。新開高)の合計からなっています。
  5. そして、中相馬領の支配高合計は、この表では8199.997石(約8200石)となります。
  6. また、中相馬領の前記の2)及び3)の合計は分かっており、3059.653石となります。従って本高は、5140.347石となります。
  7. 次に、右表「2.田中藩南相馬領の領地(支配高計 6950石余り)」となっていますが、その内訳は分かりません。そこで、南相馬領の支配高にも、中相馬領と同様の割合で、2)改出高及び3)新高があると仮定すると、それらの合計は、約2593石となり、本高は約4357石となります。
  8. 以上の計算により、本高は約5140.347石+4357石で、約9497石となり、2)及び3)の合計は約5653石となります。(これに記載漏れの「中曽根下谷新田」の支配高635.763石が加わります。但し、内訳は不明です。)

 以上の通り、本多藩下総の飛地領、1万石というのは、表高(本高)のことをいい、他に新田等が約5653石(本表では5785石)あったということです。

 なお、柏市史近世編では「(田中藩の)飛地領の下総の国には、(中略)42か村に表高1万石、ほかに新田5736石7斗4合4勺、実高で15736石7斗4合4勺存在した。」とする記載がありますが、ほぼこの内容に近いことになります。

 また、「流山市史通史編1」でも、葛飾郡及び相馬郡42か村合計で本多領の宛行分を15709石8升7合4勺としており、同じく1万石を超えている。

 これについて、当該資料は何も述べていませんが、これも同様の理由と考えられます。

 以上の他、下記については、本稿に関係があり、説明する必要のあるもの或いは興味ある事項ですが、記載するには長くなりますので、省略させていただきます。

1.本表に参考までに記載した「流山市史通史編1」から転載の「元禄14年宛行分(石)」の各村の数値はほとんど「柏市史近世編」の数値に近い、もしくは同じものとなっていますが、中には大きくくい違っているものもあります。

 その個所や理由等については、説明がやや長くなるのでここでは記載いたしません。

2.さらにそれぞれに記載の村などの数や範囲などが違っているとこもありますが、これも同じ理由で記載いたしません。

3.最後に、田中藩本多家の下総飛地領は、本表に記載の通り葛飾郡と相馬郡にわたっていますが、領地内の村数を見ると葛飾郡の方が相馬郡より多いにもかかわらず、その領地をなぜ中相馬領や南相馬領と呼称するのか、さらに葛飾郡と相馬郡の位置関係や来歴などについても説明が長くなりますので、ここでは記載いたしません。

以上 

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